大河ドラマ「どうする家康」で家康の正室である瀬名(築山殿)が危険な状態にいますが、実は家康にはもう一人正室がいたのです。
それはずっと後のことになりますが、今回は家康の正室について調べてみたので、最後まで読んでみてくださいね!
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?瀬名の家系は?
瀬名の父は、今川義元の重臣である関口親永で、母は義元の妹で、今川義元と瀬名は、伯父と姪の関係になります。
瀬名は色白の美人で、由緒正しい家で何不自由ない生活をし、のちに築山殿と呼ばれるようになります。
⇒ ドラマ「どうする家康」久能山東照宮の周辺で有名なところは?石垣いちごは美味しい?
その瀬名が松平元康(徳川家康)の最初の正室になったのです。
今川義元に言われて、瀬名と祝言を挙げたのです。
薬温湯 炭酸美肌浴セット POD-20 [ギフトセット 引き出物 引出物 内祝い 結婚内祝い 出産内祝い 引越し ご挨拶 お返し 粗供養 満中陰志 快気敬老 祝い][のし 包装 カード無料]
しかし「どうする家康」では、瀬名は危機的状態になり、元康に助けを呼んでいます。
⇒ 「どする家康」今川氏真が松平元康の妻・瀬名(築山殿)を愛人に?側室にしなかった理由とは?
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?瀬名(築山殿)ともう一人は誰?
家康のもう一人の正室は、朝日姫(旭姫)で、1543年(天文12年)に尾張国中村(現在の愛知県名古屋市)で、父・竹阿弥と母・なか(大政所)の娘として生まれました。
一説には朝日姫と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、異父兄妹であったとされて、もうひとりの兄の羽柴秀長(豊臣秀長)は、朝日姫と同じ両親であったと伝えられています。
そんな朝日姫の最初の結婚相手は、尾張の農民の佐治日向守で、羽柴秀吉の出世に伴い武士として取り立てられるようになりました。
羽柴秀吉が朝日姫を、家康に嫁がせようとした時には、佐治日向守はすでに亡くなっていたという説や、朝日姫と離縁したことをきっかけに、自害したという説もあります。
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?離縁させられ家康の正室となった朝日姫
豊臣秀吉は、徳川家康を自分の臣下にしようと、朝日姫を徳川家康のもとへ正室として嫁がせることにしました。
家康は自分の息子の結城秀康を、秀吉の人質として差し出し、秀吉に従った方が良いという議論から、朝日姫を正室にすることにしました。
しかし、朝日姫には佐治日向守という夫がいて、秀吉は無理矢理にでも離縁させようとしたので、朝日姫の夫である佐治日向守は心を痛めて、自害したという話も伝わっています。
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?天下人になるために秀吉がとった策略は?
豊臣秀吉は、天下人としての威厳を示すために、徳川家康に何度も上洛を促しましたが、朝日姫を嫁がせても拒否されてしまいました。
そこで、最後の手段として、自分の母・なか(大政所)を、朝日姫の見舞いという名目で(実質的には人質として)徳川家康のもとへ送り出すことにしました。
これで徳川からの人質は、家康の子どもである結城秀康1人だけでしたが、豊臣秀吉からは、徳川家に2人(朝日姫と母・なか)も人質を差し出すことになったのです。
秀吉は家康と前日に打ち合わせをして、家康に対して荘厳な態度で接し、秀吉も礼儀正しく彼を迎え、それを見た諸大名は、徳川家康ですら豊臣秀吉に頭を下げるのかと驚かれたそうです。
秀吉は、事前に伝えてあったにもかかわらず、家康の器の大きさを認識し感心しました。
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?駿府では騒動があった?
駿府(静岡県静岡市)では、徳川家康が上洛中の間、家臣である本多重次がその留守を務めていたということが伝えられています。
本多重次は、忠義心に溢れていましたが、気性が荒く怒りっぽい性格でした。
そのため、なか(大政所)と朝日姫がいる屋敷の周りには、本多重次が薪を積み上げたと言われていて、万が一のことがあった場合には、すぐに館ごとを焼き殺す準備をしていたそうです。
豊臣秀吉はこの逸話を聞いて、怒り狂ったと言われています。
それだけでなく、1590年(天正18年)の小田原征伐の後、秀吉は家康に命じて、本多重次に蟄居の刑を科させたという言い伝えもあります。
蟄居の刑とは、閉門の上、自宅の一室に謹慎させることを言います。
「どうする家康」徳川家康の正室は2人?瀬名(築山殿)ともう一人は誰?どのような馴れ初めで?まとめ
大河ドラマ「どうする家康」で家康の正室である瀬名(築山殿)が危険な状態にいますが、実は家康にはもう一人正室がいて、それは豊臣秀吉からの指示で正室として迎え入れた朝日姫でした。
朝日姫にはすでに夫がいましたが、秀吉により離縁させられ家康と一緒になりました。
天下統一のために女性は、そのためのきっかけ作りの一つとされているようです。
⇒ 「どうする家康」第3話は苦渋の選択!今川と瀬名を裏切り元康は織田信長に寝返った?
瀬名は後に、織田信長によって殺害されてしまい、息子の信康(長男)は自害します。
必要が亡くなれば斬り捨てられる、そんな時代だったのです。
家康の正室は二人いて、多分どちらも苦労されたことと思います。
ということで、次回もお楽しみにしてくださいね♪
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。